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横井先生の記事

福沢諭吉の「学問のすすめ」

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」。

 

この際、恥を忍んで告白します。

「學問のすゝめ」の冒頭のくだりのみの生半可な知識から、青空文庫でたまたま原文を目にするまでずっと福沢諭吉は、楽観的な平等主義者なのだと思い込んできました。

 

しかし、明治を代表する大啓蒙思想家は、「皆が平等だ」などとうつつを抜かしていたわけではありませんでした。

 

冒頭の一文は正確には、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」で、「云へり」は、ウィキペディアによるとアメリカ合衆国の独立宣言を引用して「そう言われている」との意だそうです。

だから、単なる引用である「人の上に人を造らず…」というのが福沢諭吉の名言として人口に膾炙していること自体おかしいのです。

 

肝心なのは、この後に「されども今廣く此人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、其有樣雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」と続き、「賢人と愚人との別は學ぶと學ばざるとに由て出來るものなり」と説いていることの方なのです。

そして、諭吉先生は、日常的に利用価値のある実学を身につけるべきだと論を進めていきます。

 

つまり諭吉先生は、平等ではない現実を直視して憂いた上で、平等な世の中にするために学問をしましょう、と言いたかったのです。

 

生半可な知識は、トンチンカンな誤解を生じるということを肝に銘じた次第です。

日常的に利用価値のある正確な知識を得るべく実学に励みたいと思います。

(横井盛也)
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医療における自己決定権

昨年、患者の自己決定権を侵害したとして70万円の支払いを命じる一部敗訴判決を受けたのですが、未だ納得できない思いを引きずっています。

医療機関側の代理人としていくつも医療訴訟をしていますが、一部でも敗訴の判決を受けたのは初めてのことです。

治療に過失はないこと、治療や説明義務と損害の間には因果関係が認められないことについての立証を尽くし、「請求棄却」を確信していただけにショックでした。

 

「説明義務違反により自己決定権を侵害した」。

手術療法と保存療法のいずれの適応でもある症例において患者が手術療法を明確に拒んだために保存療法を行ったという事案で、裁判所は、患者が拒否しても医師は手術療法の方が良い予後が期待されることを何度も説明し説得すべきであったというのです。

医療側に説明義務があることも、患者の自己決定権が尊重されるべきことも当然のことですが、でも、何か釈然としないのです。

 

市民社会の成熟に伴って一人ひとりの自己決定権が尊重される世の中になってきました。それはそれでとても素晴らしいことです。

 

医療訴訟の分野においても、エホバの証人輸血拒否事件の最高裁判決(2000年)以後、急速かつ確実に患者の自己決定権を尊重する傾向が強まっています。

エホバの証人輸血拒否事件は、東京地裁が「生命を救うためにした輸血は、社会的に相当な行為で違法性がない」としたのですが、東京高裁と最高裁は、他に救命手段のない事態に至った場合には輸血するとの方針を説明せずに手術を施行し輸血したことは、患者の自己決定権を侵害するとして医療側に55万円の賠償を命じました。

 

果たして、この最高裁判決は正しいのでしょうか。

輸血をすれば助かるのに輸血を拒否する自己決定権は、自己決定権の自己否定なのではないか、という素朴な疑問が頭から離れないのです。

自己決定権の本質として、自分自身で何かを決定することにその意義があるのであれば、自己決定権の存在自体を脅かす行為が許されてよいのでしょうか。

つまり、死ぬことで当人の自己決定権がその後全く無に帰すような場面において自己決定権が認められてよいのか、ということです。

 

そして、患者の意思を尊重するという美名のもと、医師の良心を酷く傷つけることになりはしないのか、ということを考えるのです。

患者を救おうと日々命を削っている医師が、目の前で死にゆく人を見殺しにすることを強制される理不尽に耐えろと裁判所は言っているようです。

 

患者の自己決定権は大切です。でも、医師の良心や裁量も同様に尊重されるべきだと思うのです。

(横井盛也)

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二兎追う者は一兎を得ず

年末の衆院選に続いて、今年の7月には参院選が行われます。

安倍総理の「金融緩和と財政出動と成長戦略の3本の矢で、強い経済を取り戻す」という公約に異論はありません。

ねじれを解消して決められない政治から脱却し、国民生活の安定や景気の回復が実現することを期待したいと思います。

 

ところで、衆院選において一躍全国区となった日本維新の会は、自治体の首長と参院議員の兼職を禁止する地方自治法の改正案を次期国会に提出しようとしているようです。

橋下徹代表代行が大阪市長のまま参院選に立候補できるようにすることが主な目的なのでしょう。

しかし、そもそも橋下市長は、「二院制など不要」と広言する参院廃止論者でした。

国会議員にはなりたいけれど、大阪都構想を実現するとの公約を掲げてしまっている以上、市長職を投げ出すわけにはいかない。そんな自らの都合により、自説を翻したように思えて仕方ありません。

 

そもそも自治体の長は、国会議員を兼務できるほど閑職なのでしょうか。

住民の直接選挙で選ばれた自治体の長が国政でも発言力を持つべきという発想は素晴らしいものだと思いますが、そうならば全国知事会や全国市長会の権能を高める等の方策を立案・主張するのが筋だと思います。

 

「維新八策」では、国会改革として、参院の廃止と衆院議員を240人に半減することが謳われています。

国会議員の減らしたところで削減できる額など国家財政の規模と比して極めて微々たるものです。

国会議員の半数は国民のために働いていないということなのでしょうか。 (でも自分なら働けると考えているとしたら傲慢の極みです。)

 

政治家たるもの、大衆受けするパフォーマンスではなく、細心かつ緻密な言葉の積み重ねによって良識を語るべきだと思います。

(横井盛也)

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弁護士会の研修

大阪弁護士会の弁護士は、年間10単位(=10時間)の研修を受けることが義務付けられています。

研修といっても講義を聴くだけで、出席すれば内容を理解しようがしまいが単位はもらえます。

ライブ講義のほかにビデオ講義も豊富に実施されており、空いた時間に様々な講義を聴くことができるので大した負担にはなりませんし、役立つ情報も得られます。

どの講義もしっかり準備されており、聴けばそれなりの効果は得られるはずです。

私も講師をしたことがありますが、2時間の講義のためには相当の準備が必要です。

 

でも、研修により能力が向上すると考えるのは断じて間違いです。

何十時間の講義を聴くことよりも、依頼者の話にしっかりと耳を傾け、相手の書面を読み込み、文献や判例を徹底的に調べて考え抜き、何度も推敲を重ねて書面を仕上げる実務の1件の方がよっぽど能力の向上につながるはずです。

研修は、あくまでも補完に過ぎません。

 

ところが大阪弁護士会は、研修によって弁護士の能力が飛躍的に向上すると考えているようです。

例えば、弁護士会のサラ金相談担当者になるためには関連する6単位を取得することが必須要件とされています。

例えば犯罪被害者支援の研修を受ければ、犯罪被害者支援精通弁護士として事件紹介名簿に登載されます。

さらには今後、裁判員裁判の国選弁護人の推薦人名簿への登載は、法廷でのプレゼンテーション能力を高めるための実演型研修を受講した者に限ることにしています。

実演型の研修を受ければプレゼン能力が向上すると考えているのでしょうが、2日程度の研修で飛躍的な能力の向上は不可能です。 (ただし、研修における評価に基づいて名簿登載の可否を判断するというのであれば、ある程度有効な方法だと思います。)

 

 

その分野に精通した弁護士を相談担当者にし、事件紹介名簿に登載するというのであれば、その分野の実務経験を基準にすべきだと思いますし、プレゼン能力の高い者を裁判員裁判の国選弁護人推薦名簿に登載したいのであれば、実際の法廷でのプレゼン能力を評価して決めるべきだと思います。

(横井盛也)

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裁判の証拠

「証拠がないからどうせ裁判しても勝てませんよね」と控えめにおっしゃられる相談者がたくさんおられます。

確かにそのとおりかもしれません。

でも待ってください。証拠が揃っているなら裁判をするまでもありません。

決定的な証拠がないからこそ裁判になるのです。

 

日頃から何事につけ証拠化を心がけていればよいのですが、そんなことは不可能です。

ビジネスの世界でも、日常取引についての基本契約書を交わしていない、担保の設定をしていないといったケースをよく目にします。

「証拠がない」といっても、よく話を聞いてみると立派な証拠が存在する場合があります。

単なるメモ、メールの送受信記録、とりとめのないことを記した日記帳などなど。

探してもなければ、最後は尋問です。

民事訴訟は、双方の当事者のうち、どちらか一方が嘘をついているといったことがよくあります。

証言も立派な証拠です。

公平中立な裁判所にどちらが真実を語っているのかを判断してもらうのです。

 

でも、紛争が起こらないよう予防できれば、それに越したことはありません。

 

近年、交通事故の裁判において、ドライブレコーダーの存在により尋問もなく早期に裁判所から和解案が提示されるケースが増えてきました。

略してドラレコ。

車両に大きな衝撃が加わると、前後十数秒の前方映像、時刻、速度等を自動的に記録する優れものです。

DVD等にデータを落とし込みパソコンで再生すると事故の態様が一目瞭然です。

2012年4月、京都・祇園で18人の死傷者を出した暴走車事故の映像の衝撃をご記憶の方も多いと思います。

 

まだまだ普及率は低いようですが、普及すれば、双方ともが「青信号で交差点に進入した」と主張するような泥仕合は激減し、訴訟経済に大きく貢献することは間違いありません。

カーナビは標準装備化され急激に普及しました。次は、ドラレコの番だと思います。

(横井盛也)

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