マスコミに公表すべきでない
- 2013-01-25 (金)
- 横井弁護士
アルジェリアの人質事件で日本人10人を含む多くの人が犠牲になったというニュースは、我々の住む世界がまだまだ安全でないことを実感させるものでした。
最果ての地でプラント建設に尽力しながらテロの凶弾に倒れた人たちの無念さは察するに余りあります。
ところで、新聞を読み、テレビニュースを見ても、この事件について、どんな考えの集団が何を目的に起こしたものなのか、背景にはどんな意見の対立や問題があるのかなどがよく理解できません。
まだ、そのような評価をする段階ではないのかもしれませんが、伝えられるのは、何人の死亡が確認されたとか、遺族や知人が深い悲しみに包まれたとか、政府や会社が情報収集に追われているというといったことが中心です。
新聞記事の中に「内閣記者会は22日、政府に対して死亡した人の氏名と年齢を公表するよう文書で申し入れた」というものを見つけました。理由として「この事件に対する国民の関心は非常に高い」ということを挙げています。
マスコミが公表を迫る時に用いる「国民の関心が高い」という常套句にはいつも辟易とします。
「説明責任」だとか「知る権利」だとかいって、まるで自分たちが国民の代表にでもなったかのようです。
(私もかつて、そのような1人であったことを深く反省しています。)
この記事によると、政府は、犠牲者を出した企業「日揮」の要請を踏まえて、被害者の氏名を公表していないとのこと。
私が被害者でも公表はされたくはありませんし、今回犠牲になった人やその家族、関係者の多くも同じ思いなのではないでしょうか。
そして、国民の多くも決して犠牲者の名前や年齢を知りたいと考えてはいないと思います。
マスコミが犠牲者の氏名等を知り、報道することで権力の監視につながるとも思えません。
マスコミは、被害者を追い駆け回す過熱取材や怒涛のような過剰報道はやめて、事件の本質を淡々と伝える客観報道に方針転換すべきだと思います。
(横井盛也)
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若者に厳しい社会
- 2013-01-25 (金)
- 横井弁護士
大学を卒業した1989年(平成元年)はバブルの真っ盛り。
どの会社も就活解禁日に内定者を旅行に連れて行くなどして囲い込みに必死、といった超売り手市場でした。
経済学部出身の私は、将来弁護士になることなど全く想像しておらず、大した思い入れもなく新聞社に入社しました。
様々な業種の面接を受けて多くの誘いをいただき、就職に関して苦労した思い出はありません。
最近では、「エントリーシートを出しまくっても面接すら受けさせてもらえない」とか「大学時代の思い出は就職活動」と嘆く若者が多いとのこと。
自立した人生を踏み出そうとする若者世代にとって残酷なことです。
国内産業空洞化や景気後退のしわ寄せを若者世代が受けているということなのでしょう。
若者の声をもっと政治に反映させなければなりません。
孫の財布をあてにして借金を重ねるようなシルバー民主主義を打破しなければなりません。
公職選挙法9条で選挙権年齢が満20歳と定められていますが、これを早急に改正して18歳に引き下げるべきです。さらには公職に立候補できる被選挙権年齢も引き下げるべきです。
ところで、平成19年に成立した「日本国憲法の改正手続きに関する法律」(国民投票法)の3条で
「日本国民で年齢満18年以上の者は、国民投票の投票権を有する」
と定められていることをご存知でしょうか。
でも18歳ではないのです。
同法の附則において、公職選挙法の選挙権年齢や民法の成人年齢が改正されるまでは、国民投票の投票権年齢を20歳とすると定められているのです。
この法律が出来た頃は、選挙権年齢引下げについての議論が盛んにされていたと思うのですが、すっかり忘れ去られてしまったようです。
若者は社会経験が乏しく精神的に未熟で判断能力が劣るといった反対論に押し切られてしまったのでしょうか。
そんなことではいけません。
参政権は国民固有の権利です(現行憲法15条)。
幅広い年齢層の意思を反映させることが真の民主主義につながるはずです。
若者の政治意識を高めることで議会制民主主義の発展にも寄与するはずです。
高齢者に対する支援も必要ですが、若者世代が将来にわたって安心して働き、家族を築いて次世代に希望をつないでいけるような政策を進める必要があるのです。
生まれた時代を嘆いているだけでは社会は変わりません。
不遇な若者世代の積極的な政治参加を期待しています。
(横井盛也)
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受験回数制限についての反論に対する再反論
- 2013-01-21 (月)
- 横井弁護士
元「法律新聞」編集長の弁護士観察日記さんが、<「受験回数制限」をめぐる評価の仕方>と題するブログ記事
http://kounomaki.blog84.fc2.com/blog-entry-617.html
で私のブログ記事「司法試験の受験回数制限について」
http://www.law-yokoi.com/blog/?p=543
を取り上げ、コメントして下さっています。
そこで、今度は私が元「法律新聞」編集長さんの意見に対してコメントしたいと思います。
元「法律新聞」編集長さんは、概要、
<「5年以内に3回」という期間設定は、司法試験を法科大学院教育の効果測定という位置付けにすることが前提です>
<このカリキュラムできちんと学んだならば、合格できるという前提のもと、それでも3回チャレンジして合格できない者が制度の対象となるところに、制度の妥当性があったように思えるのです>
<「効果測定」の前提を満たしていないのは、現実の法科大学院の方で、彼らこそ、あたかも「有効期限」を設けているような制度を志願者に課す「資格」を疑われてしかるべきではないか、と思えるのです>
として、「改革」全体を見れば受験回数制限を設けることに違和感を覚える、と主張されておられます。
確かに法科大学院の教育の効果測定を前提として受験回数制限が設けられた経緯についてはそのとおりなのでしょう。
また、司法試験の目的が法科大学院教育の効果測定であるとするならば、法科大学院の修了認定自体が事実上破綻していますから前提自体が揺らぐ感は否めません。
しかし、経緯や理念がどうであれ司法試験を法科大学院の教育の効果測定と一対一で結び付ける必然性は全くないと思います。
私は、法科大学院で2~3年学び修了認定まで受けて(修了認定が甘すぎることは大問題ですが)、その後5年間に3回も受験機会が与えられたにもかかわらず合格できなかった者が制度の対象となるところに受験回数制限の妥当性を十分に見出せると思うのです。
法曹の仕事は、常に一定程度の法律知識が必要ですが、それよりもむしろ未知の問題に直面したとき、いかに短期間に知識を吸収し、問題の本質を深く理解し、適切に問題を解決できるかという能力が要求されているというのが実感です。
だから受験回数制限は、法科大学院修了から5年という期間で合格レベルに達する知識や理解を得ることができたかを判定するための制度と考えるべきです。
ちなみに医師国家試験は、医学部卒業が受験資格となっていますが、何も医学部での教育の効果測定を目的とするものではなく、「医師として具有すべき知識及び技術」が備わっているかどうかを判断しています(医師法9条参照)。
上記のことから私は、設定された経緯や理念に反するとしても結果として現在の「三振制度」は合理性があり、受験生にとっても社会にとっても有益な制度であると確信しています。
次に、そもそも法科大学院を目指す志願者自体が激減しているという深刻な問題についてですが、これは「受験回数制限」とは全く別の問題として捉えるべきでしょう。
志願者自体が激減しているのは、端的にいって修習後の就職難や弁護士の所得減少などの問題を反映したものだと思います。
この点については、また別稿で書きたいと思います。
(横井盛也)
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弁護士の就職難
- 2013-01-21 (月)
- 横井弁護士
日弁連新聞1月号に司法修習終了者の登録状況が掲載されています。
昨年12月の2回試験で法曹資格を得た65期2080人のうち弁護士登録したのは1370人に過ぎず、裁判官・検察官の任官を除く未登録者は542人にのぼっています。
一括登録時点の未登録者は、新60期が32人、新61期が89人、新62期が133人、新63期が214人、新64期が404人と年々増加しており、就職難は数字の上からもはっきりと読み取れます。
一度ぶっ壊して新たな仕組みを作ろうとした司法制度改革の失敗の結果というほかありません。
即独や軒弁といった形態が増え、日弁連や各単位弁護士会は、経験の少ない若手へのOJT研修を行うなどの支援を強化する意向のようです。
しかし、私は、こんな小手先の中途半端な支援なら、しない方がマシだと思います。
弁護士の実務能力は、経験を重ねることで培われるのであり、イソ弁としてボスの下で仕事を学ぶ必要があると思います。
私は、イソ弁時代、何ものにも代えがたい貴重な体験をさせてもらったとボスに深く感謝しています。
かつて旧司法試験時代、合格者は長らく500人程度という時代が続き、平成3年頃から漸増しましたが、1500人を超えたことはありません。
即独、軒弁といった概念すらありませんでした。
ほとんどの弁護士は、ボスの下で朝から晩まで修業して仕事のイロハを学び、社会を知り、それから頃合いを見て独立するなどしていったのです。
私は、これが弁護士養成の正しい姿なのだと思います。
例えば、医師の世界において、資格取得後いきなり独立開業ということは考えられません。病院で何年も先輩医師の指導を受け、カンファレンス等で厳しく鍛え上げられ、医師として成長していくのです。一流と言われる心臓外科医は、何年も先輩医師の助手を務めるなどして技術を磨いています。
誰も、試験に受かって多少の研修を受けただけの新人外科医に心臓手術をしてもらいたくないはずです。
日弁連や各単位弁護士会は、多少のOJT研修で実務能力が身に着くといった幻想を抱いているようですが、実務能力は、何十件、何百件と実際の案件をこなすことで培われるのだと思います。
次から次に仕事に追われ、必死になってそれと向き合うといった経験が必要なのです。
社会の法律家に対する需要(社会全体の案件数)が増えていないにも関わらず弁護士の数だけが増えています。
国選弁護人の仕事を求めて大勢が群がっている様は、ある意味改善ですが、ある意味異常です。
仕事がないのに弁護士の能力が高まるはずはありません。
以上の次第で私は、弁護士養成の正しい方法が確保される程度、つまりイソ弁として修業が積める環境が整う程度まで、司法試験の合格者数を減らすことが必要だと思います。それが無理ならば2回試験の合格者数を減らすこと、さらにそれが無理ならば弁護士登録数を抑制することが必要です。
日弁連発行の司法改革パンフレット2011年度版「司法改革Q&A」http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/sihoukaikaku.pdf
に、「法科大学院修了者の一部には法律基本科目の知識・理解が不十分で、法曹に求められている最低限の「質」を備えていない者も見受けられること、期間が短くなったことから法律実務家としての技能・倫理を磨かせることを目的とした司法修習がその役割を十分に果たせていないこと、若手弁護士の急増から新規法曹のOJTが不十分なこと等の問題が明らかとなり、これらの問題の克服が課題」とあります。
法曹に求められる最低限の「質」を確保できない弁護士の跋扈を許す日本弁護士連合会に自治など認められようはずはありません。
(横井盛也)
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司法試験の受験回数制限について
- 2013-01-18 (金)
- 横井弁護士
司法試験の受験回数が、「法科大学院修了または予備試験合格後5年以内に3回まで」とされていることについて、制限を撤廃ないし緩和すべきとの意見も多いようです。
しかし、私は、「5年以内に3回まで」という部分については、絶対に維持すべきだと思います。
司法制度改革において、唯一成功した改革は、この受験回数の制限であるとさえ考えています。
かつての旧司法試験は、受験資格に制限はありませんでした。
法務省の資料(トップ>審議会等>その他会議>法曹養成制度検討会議>第6回会議>事務局提出資料)によると、例えば、平成16年(2004年)の司法試験の出願者は49,991人で合格者は1,483人。合格率は3.0%でした。
そして、合格者の受験期間で最も多いのは、「3年目」と「10年目以上」が拮抗して約250人ずつ、次いで「4年目」と「5年目」が約200人ずつ、そのあと「6年目」、「7年目」、「8年目」、「9年目」と続いて「1年目」はほんの僅かです。
つまり、約5万人もの受験生が合格率3%程度のバクチのような試験のために、長期間、猛烈な試験勉強をしていたのです。
そして、大半の受験生は、挫折と失望を経験し、結局報われなかったのです。
就職の機会を逃した人、あるいは結婚・出産の機会を逃した人なども多数いたに違いありません。
並大抵の努力で10年以上も受験勉強を続けることはできません。
20代や30代の1年は貴重です。80代、90代の数年分に匹敵する価値があるかもしれません。
勉強したくてしているのだから本人の自由と言ってしまえばそれまでのことですが、多くの有為な若者が、本来、社会に貢献することで自己実現を図り、社会経験を積んで大きく成長すべき青春時代を受験勉強に費やすことの社会的損失は、決して無視することはできないと思います。
10年目に合格するのであれば、1年目に合格させた方が、本人にとっても社会にとっても、ずっと有益です。
10年目に合格した人よりも3年で諦めた人の方が優秀だったかもしれません。
10年以上も受験勉強を続けて結局合格しなかった人は、もっと早期に諦めて転進した方が幸せだったといえるのではないでしょうか。
受験回数を制限すれば、ベテラン受験生は存在しなくなり、受験者数が減ることの恩恵を全員が平等に受けることになりますし、早期の転進も図りやすくなります。
現に、受験回数が制限されてからは、「1年目」の合格率が最も多く、年数が増えるに従って合格率は低下しています。
「6年目」以降は存在せず、否応なしに転進が可能となる仕組みです。
こんな理由で、私は、「5年以内3回まで」の制限は絶対に堅持すべきだと考えています。
なお、「法科大学院修了又は予備試験合格」を受験資格とすることについては、いろいろと思うところがあるのですが、また別の機会に書きたいと思います。
(横井盛也)
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